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出没情報「銀河鉄道セレナーデ〜賢治の恋〜」

もっと早くに
紹介したかったのですが
あまりに私の想いが猛り走り
またコトバにすることに畏れも感じ
容易くは書けなかったのです

しかし、僅かでも多くの人に
作品に触れていただきたいという
想いと
私のこの余熱を冷ますために
記しておこうと思います


「銀河鉄道セレナーデ〜賢治の恋〜」
2014年3月30日(日)
SAYAKAホール/コンベンションホール
1st/14:00開演
2nd/18:00開演
詳細→



私は今、縁あって
「宮沢賢治」と「志賀直哉」と
向きあっています

少し前には
「金子みすゞ」や「小泉八雲」とも
向きあったことがあり

奇しくも
揃って明治、大正、昭和期に
生まれ育った
文人たちなのですね


日本にとりまして
「明治」という史実は
近代化、現代へ至る
大きな分岐点で

この時代頃より
より良い、便利で、豊かな暮らしを
皆が志し、希求し、現実のものとし
急速な発展、発達と共に
現代の栄華へと至ります

一方で
その性急さがもたらす
自然環境の破壊や解体…
また、留まることを知らない
人々の欲望の肥大が
こころの崩壊をもたらし
本来の日本的な「何か」を
皆が見失いはじめるのも
この時代であったと感じます


この、日本的な「何か」

多くの日本人が
薄々感ずきながらも
しかし、決して
手に取ることのできない
目に見えない
大切と思える

「何か」


…猛烈な時代の変化の潮流の中で
じっくりと腰と意識を据えて
考える余裕も奪われ

そんなことより

確実に手に取れる
また
欲求に満ちた
豊かな暮らしと
引き換える手段としての

「マネー」(実は最も実体のない)や


流動的な時代の中で
手っ取り早く
信頼と安心を得ることのできる

「契約」(実は最も実態のない)

或いは、富国強兵、効率化
など…

それらを手にする事に奔走する中で
益々に鈍ってゆく「感性」では
もはや
捉えることが出来ない

「何か」


この「何か」を
喪い始めた日本、いや日本人への
危惧や憂いが
先の文人たちの筆を走らせる
衝動となり
かつまた
その「何か」と
真摯に向き合い、己自身が
その本質に近づき
人々へ伝達することを
使命とした
のではないかと
思うに至るのです


さて
この「本質」への迫り方に
各人、大きな違いがありまして…


通常一つの手がかりを元に
ある立場に立ちます

それが「右より」と仮定しまして

物事は必ず
相反する要素を生み出しますので
相対する「左より」と
対立することとなります

討論や闘争に明け暮れるのではなく
賢人はその間にある「中心」
つまり「本質」の落とし処を
見つけるのではないかと
私は思うのです

例えば、単純に
「あるモノ」を挟んで
向こうとこちらに対峙した時
私はこちらからの様を語り
向こう人は、向こうの様を語り
永遠に相容れそうにもないが
お互いのコトバを
足したり、引いたり
掛けたり、割ったり
することで、ふと
本質に気づくようなものです


私は「曼荼羅」という宗教画を
物事を考える図面だと捉えています

中央に「本質」があり
その周辺が「本質」を満たすための「条件」となります

この図式にならえば
右、左だけでなく
上、下、斜めなど
多様な周辺要素があり

「右より」「左より」
だけでなく
「上」「下」「斜め」からの
見識も取り込み
本質に迫ることができます


例えば「志賀直哉」は
太宰治や三島由紀夫、丸谷才一
といった文人と
批判対立があったとされますが
それはジャーナリスティックな
対立の反面
本質の部分での
対立ではなかったかと
私は考えています


一方
「宮沢賢治」や「小泉八雲」
といった、霊的素養を備えた
文人たちの場合

周辺から物事を解くのではなく
直観的に「本質」に飛び込み
そこから感性の閃くままに

「私の感性を今震わせているのは何なのだ?これを理解するためには何をすれば良いのか?文章で吐き出せばよいのか?音楽でカタチにすれば良いのか?あるいは絵画で描けば良いのか?コトバで語れば良いのか?」

という自問自答と共に
特に賢治の場合
実に衝動的に
作品に向かっていたのではないかと、私には感じられます。


さて
その宮沢賢治に
運命的に偶発的に触発され
自ら宮沢賢治像を描くことになった
旧くからの知人、宮崎美智子さんが
宮沢賢治の深層を描くという
途轍もない作品作りに挑み

私もそこに関わる事と
相成りました


宮崎美智子さんは
彼女自体がシンガーソングライターというクリエーターであり
また、様々なエッセンスを
多様に取り込む
ミュージカルプロデューサー
でもあり
宮沢賢治という多様性を表現し得る
数少ない逸材と感じています

また
芝居、朗読、クラシック、即興音楽、ダンス、書道、絵画、空間描写…

これらの表現手段を用い
宮沢賢治の生き様と照らしながら
一つのステージ、ショーを構築し
「何か」に迫ろうとする
意欲的で野心的な作品に仕上がるのではないかと感じています

近頃、感性が鈍り
物事の本質に近づき得ない
方々にとっては
今回の作品が
じんせいの処方
となることを願ってやみません
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by skoproject | 2014-03-30 04:03